年を経て人間が丸くなる、というのは一面では正しい。
が、もちろんそうでない面もあるわけで。
確かに昔より丸くなった部分はある。
以前だったら怒髪天を衝き怒り心頭罵詈雑言になっていたであろうような到底許しがたい理不尽に遭遇しても、苦い笑いを浮かべて溜め息一つ吐いて済ますような場面はある。
しかし、それは丸くなった、というよりも怒るためのエネルギーが無くなっただけのような気がする。
もしくは、怒りを熱情として理不尽を糺すべく正論を吐き行動したところで何一つ変わることが無かった過去の経験から学習した所作であるかもしれない。
そのような情動に回すエネルギーの枯渇、もしくは諦念故の諦めからくる「人としての角の取れ方」も確かにあるっちゃあるんだが、それらひっくるめての経年による丸みよりも、むしろ年を経るごとに自分の中に依怙地に偏屈に頑なになっていく部分があることを最近とみに感じる。
年を取ると、その人の本質、というか、必ずしも快いものばかりではない人間的な灰汁の部分がより色濃く強くなるような印象がある。亡くなった祖父、や存命の祖母、老境に向かいつつある両親の言動観察から感じたことであるが、自ら感じる経年よって益々増大する己の狷介さというのは、自分という人間の本質なんだろうとうんざり自己中毒的な気分に陥る。
例えば。
仕事は残っているが締切はまだ先だし早く片付けても次の仕事が来るだけだし、どんなに早くこなしても評価されるわけじゃないし、と定時に切り上げて帰宅したようなとき。
「あら、早かったね」
その言葉を発する家族には他意はないことはわかっているのだが、「早かったら悪いんか」と、不快な気分になる。
また、仕事で遅くなる日もある。そんな日の翌朝、
「昨日は遅かったね」
他意はない。それはわかっている。でも、「それがどうした」と言いたくなる。どういう理由で遅くなったのかを家族に語ったところで意味はないし、会社から一歩外に出たら仕事のことでシナプス1つ動かしたくないのに、何故話しても理解できないであろう相手になぜ遅くなったのかを語らねばならんのか?
早く帰れば早いと言われ、遅く帰れば遅いといわれる。私はいったい何時に帰れば不毛な問答から逃げられるんだ?
滔々と訴えたくなる気分を抑え、ただ無言で黙々と飯を食い、早々に部屋に引きこもる。

まったく
親に心底同情するよ。
私が母親だったら、こんな偏屈な娘は家からとうに蹴りだしている。
四捨五入したら70才代。癌で2回手術もしている。いつ何があってもおかしくない相手である。他意が無いこともわかりきっている。
もうちょっと寛容に優しくしたいとは思っているのだが。
色々難しい。

ステッパー71分(6000ステップ)
腕立て35×3
ヒップレイズ50×3
クランチ50×3

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索