夢、現実、重複する記憶
2016年9月25日 日常頼まれて海外サイトの技術文書をチェックしていた。
TOEIC400点の貧弱英語力だが、技術文書は出てくる単語もおおむね決まっていて書いてある内容も予想の範囲なのでさらっと流し読んでチェックする程度ならできる。
チェックする前に懸念していたのは1点。
とあるプロセスが事前の公開情報では1回だけ実施されていることになっているが、実のところ2回実施されている懸念があった。実際のところ2回やっても製品品質には問題が出る恐れはないし、むしろ海外では2回やるのが一般的なプロセスではあるのだが、一応公には『2回実施する』とうたっていない以上、1回でないと色々グレーな部分が将来的に出てくる可能性がある。
技術文書内の設備模式図を見ると、どうみてもそのプロセスが2回書かれている。しかし事前準備資材一覧の欄には、そのプロセスに使用する資材は1回分しか記載されていない。
うーん、1回なのか、2回なのか。
特定しきれずに読み込んでいくと、作業前の準備工程に『2回目のプロセスを行うための資材設置パーツを取り外し、直配管に差し替えること』的意味合いの記載があった。
ああ、やっぱりプロセスは1回なんだ、
と安堵したのだが。
数日後、その技術文書を再度読み返したところ、作業前の準備工程の配管交換の記載など存在しないことに気付いた。
二度、三度と読み返す。
やっぱり無い。
数日前に確かに読んだ記憶がある。覚えている。
しかし、存在しない。
この記憶は、なんだ?
そういえば最近夢ともつかぬ夢を見る、いや、見ているようだ。はっきりとはわからない。
はっきりとわからないのは、夢から覚めて『ああ、今のは夢だったのか』とはっきり覚醒している記憶はないのだ。
寝起き感が茫洋としているというか、覚醒の前後の意識が薄い。
窓の外の明かりだったりスマホのアラームだったりに起こされる際、なにやら夢を見ていたような感覚を覚えることもあるが、頭の中にはっきりとした形で夢の内容が残っていない。
ただ、たまにいつもよりやや強めに夢の残滓が頭の片隅に残ったまま覚醒するときもある。
その稀に残る夢の残滓は、たいてい現実に強く相似している。
朝起きて、いつものように電車に揺られ通勤し、オフィスでいつものように仕事をして、脳髄が鈍く痛むような眼精疲労を覚え、定時を少し過ぎたあたりで仕事を切りあげて帰宅し、眠る、
夢を見る。リアルそのままである。
夢なのか現実なのか判別しがたい。
ただし、ところどころに微妙に現実からずれた部分はある。
例えば昼休みに社屋の屋上に出て空を眺めて、「ああ、今日も曇りか」とぼんやりと思ったりした記憶。
うちの会社の社屋は屋上に出ることができる仕様になっていない。よってそれは現実のものではなく夢の記憶である。
また、きっぱり禁煙したはずなのに、ストレスのあまりついうっかりと吸ってしまい、「ああ、禁煙したはずだったのになぁ」とほろ苦く悔恨しながら紫煙を吐く記憶。
しかし、実際には吸ってない。タバコは始末したのでそもそも「ついうっかり吸ってしまう」というシチュエーションがそもそも成立しない。よってこの記憶は現実のものではない。
こんな現実紛いの夢のエピソードが少しずつ入り交じり私の記憶野を汚染し続けている。今まではたわいもない内容でありおおむね実害はなかった。しかし、今回の海外サイトの技術文書の件のような『取り違え』を今後も続けていると、今に致命的なミスをやらかしそうで恐ろしい。
記憶の集積が人格を形作る重要な要素だとするのであれば、現実と判別しがたい偽りの記憶がある一定の割合を超えたら、その記憶の保持者は『私』といえるのだろうか。
そして夢と現実の区別をつけることができなくなった存在は、まともな社会生活を営むことができるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、久しぶりに登山板を覗いていたら、伝説の遭難者スレのリンク先でY氏の遭難記録を読んでうすら寒くなった。
現実が知らぬ間に幻覚で汚染されている恐怖。
TOEIC400点の貧弱英語力だが、技術文書は出てくる単語もおおむね決まっていて書いてある内容も予想の範囲なのでさらっと流し読んでチェックする程度ならできる。
チェックする前に懸念していたのは1点。
とあるプロセスが事前の公開情報では1回だけ実施されていることになっているが、実のところ2回実施されている懸念があった。実際のところ2回やっても製品品質には問題が出る恐れはないし、むしろ海外では2回やるのが一般的なプロセスではあるのだが、一応公には『2回実施する』とうたっていない以上、1回でないと色々グレーな部分が将来的に出てくる可能性がある。
技術文書内の設備模式図を見ると、どうみてもそのプロセスが2回書かれている。しかし事前準備資材一覧の欄には、そのプロセスに使用する資材は1回分しか記載されていない。
うーん、1回なのか、2回なのか。
特定しきれずに読み込んでいくと、作業前の準備工程に『2回目のプロセスを行うための資材設置パーツを取り外し、直配管に差し替えること』的意味合いの記載があった。
ああ、やっぱりプロセスは1回なんだ、
と安堵したのだが。
数日後、その技術文書を再度読み返したところ、作業前の準備工程の配管交換の記載など存在しないことに気付いた。
二度、三度と読み返す。
やっぱり無い。
数日前に確かに読んだ記憶がある。覚えている。
しかし、存在しない。
この記憶は、なんだ?
そういえば最近夢ともつかぬ夢を見る、いや、見ているようだ。はっきりとはわからない。
はっきりとわからないのは、夢から覚めて『ああ、今のは夢だったのか』とはっきり覚醒している記憶はないのだ。
寝起き感が茫洋としているというか、覚醒の前後の意識が薄い。
窓の外の明かりだったりスマホのアラームだったりに起こされる際、なにやら夢を見ていたような感覚を覚えることもあるが、頭の中にはっきりとした形で夢の内容が残っていない。
ただ、たまにいつもよりやや強めに夢の残滓が頭の片隅に残ったまま覚醒するときもある。
その稀に残る夢の残滓は、たいてい現実に強く相似している。
朝起きて、いつものように電車に揺られ通勤し、オフィスでいつものように仕事をして、脳髄が鈍く痛むような眼精疲労を覚え、定時を少し過ぎたあたりで仕事を切りあげて帰宅し、眠る、
夢を見る。リアルそのままである。
夢なのか現実なのか判別しがたい。
ただし、ところどころに微妙に現実からずれた部分はある。
例えば昼休みに社屋の屋上に出て空を眺めて、「ああ、今日も曇りか」とぼんやりと思ったりした記憶。
うちの会社の社屋は屋上に出ることができる仕様になっていない。よってそれは現実のものではなく夢の記憶である。
また、きっぱり禁煙したはずなのに、ストレスのあまりついうっかりと吸ってしまい、「ああ、禁煙したはずだったのになぁ」とほろ苦く悔恨しながら紫煙を吐く記憶。
しかし、実際には吸ってない。タバコは始末したのでそもそも「ついうっかり吸ってしまう」というシチュエーションがそもそも成立しない。よってこの記憶は現実のものではない。
こんな現実紛いの夢のエピソードが少しずつ入り交じり私の記憶野を汚染し続けている。今まではたわいもない内容でありおおむね実害はなかった。しかし、今回の海外サイトの技術文書の件のような『取り違え』を今後も続けていると、今に致命的なミスをやらかしそうで恐ろしい。
記憶の集積が人格を形作る重要な要素だとするのであれば、現実と判別しがたい偽りの記憶がある一定の割合を超えたら、その記憶の保持者は『私』といえるのだろうか。
そして夢と現実の区別をつけることができなくなった存在は、まともな社会生活を営むことができるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、久しぶりに登山板を覗いていたら、伝説の遭難者スレのリンク先でY氏の遭難記録を読んでうすら寒くなった。
現実が知らぬ間に幻覚で汚染されている恐怖。
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